思い返せば、母の発病は2006年の1月のことだった。シドニーで知らせを受けて、慌てたものだ。腹膜原発の播種という珍しい病気で、卵巣癌に例えればすでにⅢ期のがんだった。5年生存率は、25%しかない。弟は理学療法士だから、そういう正確な説明でメールを送ってきた。すぐに大阪に帰ろうと思ったが、あまり慌てて帰ると、母に病状の悪さが伝わり心配をかけてしまうと思い、数週間後に帰った。一緒に住んでいた女との生活の整理をつけなければいけなかったという事情もあった。家に着き、戸を開けると母と家族が迎えに出てきた。抗がん剤の影響で、母の髪は抜け始めていて、手足は痩せているのだが、腹膜播種に伴う腹水が溜まっていた。病態の深刻さが一目で分かった。
化学療法を維持し、2006年の5月に子宮・卵巣全摘術を行った。それまで手術の付き添いなどしたことはなく、何時間とも感じられる長い時間を待合室で、祖母と一緒に母の無事を祈ったことが思い出される。手術後、ベッドごと居室に戻り、祖母は母の手を握って、無事を喜んでいた。母はどうしても摘出した子宮と卵巣が見たいと、術後確認に来た執刀医に頼んだ。意識も朦朧としていたのに、どうしても見たいという。女性として大切な臓器を失う辛さが伝わってきた。手術後、何クールかに分けて抗ガン剤の治療が始まり、腫瘍マーカーの値は下がり、一旦は寛解状態と呼べるところまで回復した。
それを見届けて、おれはオーストラリアに戻った。もう一年のワーキングホリデイを過ごすために、農業労働を始めた頃だ。正直言って、母親のそばにいることが辛かったのだろう。農場労働の合間、インターネットのアクセスができる場所があれば、時折来る弟からのメールで、母の病状の報告を聞いていた。このオーストラリアの毎日は楽しかった。毎日の労働は身体を傷めるほどのものだったが、精神は充実していた。過酷な労働を通して、また共同生活の中で、いろんな国の友人と、本当の友情を築いた。自分にとっては、かけがえのない思い出だ。毎朝、美しい景色を見ながら、中古のエンジンが掛かりにくい車を転がして、農場に向かっていた。あの異常なまでの空の青さは、自分の眼に染みついている。この頃には、以前の志望であった新聞社に勤めようなどとは思わなくなった。ニュースに触れることもなくなっていたからだろうか。自然に近い場所で、人間らしい生活ができればいいと考えていた。
ビザが切れて、一旦帰国することになった。帰路、中国に寄り、太極拳を学んでいるフランス人を訪ねたりしていた。このとき、中国で出会った、太極拳の門徒は、なぜか自分を人生の兄と認めてしまい(中国人は、そういう少しの時間を過ごしただけで、印象的なものであれば、運命的な出会いと考える傾向があるらしい)、彼らは挨拶のメールを送ってくるようになった。人間の不思議な縁というものを感じる。
2007年は大阪で迎えた。思えばこれが、家族全員揃っての最後の正月になった。2007年の夏、心筋梗塞で祖母が急逝する。この知らせもオーストラリアで聞いた。この時期は、なぜか自宅のネット回線がつながらなくて、たまたま祖母に電話を掛けたら、叔母が電話に出て、前日に亡くなっていることを知ったのだった。この時は、すぐに帰ったので、通夜に間に合った。父親のいない家庭で育った自分にとって、祖母は母親のような存在であった。そして母が、厳格な父のような存在であったと言える。そして、祖母が病気の母の世話をしていたのだった。祖母が家族をつなぐキーパーソンだった。祖母の死は、家族の役割に決定的な変化をもたらした。
祖母を亡くした後、どうするべきか迷った。永住権取得のために看護師の免許をオーストラリアで取る計画を立てていて、シドニーの大学の編入の手続きは勧めていたし、必要な英語のテストも終えていた。 日本に帰るべきか、否か。ひとつの書物の言葉が、帰ることを促しているように思った。アルフォンソ・リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』に、こうある。
「共同体とは普通、何かを、たとえば言葉やものの見方や考え方を、共有している人びとが形づくっているものだと考えられている。また、一つの民族、都市、制度といったものを共に作っている集団によって形づくられると思われている。けれども、私はすべてを残して去っていく者、すなわち死にゆく人びとのことを考え始めた。死は一人ひとりの人間に一つひとつ別のかたちで訪れる、人は孤独なかで死んでゆく、とハイデガーは言った。しかし、私は病院で、生きている人が死にゆくひとの傍に付き添うことの必然性について、何時間も考えさせられた。この必然性は、医師や看護師、つまり、できることをすべて行うためにそこに居る人びとだけのものではない。死にゆく人に最後まで付き添おうとする人、打つ手が何もなくなったのに居つづける人、自分がそこに居つづけないわけにはいかないと切実に感じている人にとっての必然性でもある。それは、この世で最もつらいことではあるが、人はそうすべきだとわかっている。死にゆくひとが人生を一緒に生きてきた親や恋人だから、という理由だけではない。人は、隣のベッドで、あるいは隣の病室で、まったく知らない人が孤独に死につつあるときにも、そこに居つづけようとするのだ。
これはたんに、一人ひとりの人間のモラルを問う決定的瞬間という意味しかないのだろうか?私は、病院であれ、貧民街であれ、孤独に死にゆく人を見捨てるような社会は、みずからその土台を根こそぎにしているのだと考えるようになった。
私たちと何も共有するもののない----人種的つながりも、言語も、宗教も、経済的利害関係もない人びとの死が、私たちと関係している。この確信が、今日、多くの人びとのなかに、ますます明らかなかたちで広がりつつあるのではないだろうか?私たちはおぼろげながら感じているのだ。私たちの世代は、つきつめれば、カンボジアやソマリアの人びと、そして私たち自身の都市の路上で生活する、社会から追放された人びとを見捨てることによって、今まさに審判を受けているのだ、と」
母を死にゆく存在である。今までの自分は、そこから目を逸らし続けていただけだ。祖母の死が、それを教えてくれたような気がする。死にゆく人の傍に付き添うことの必然性について、何度も、何度も考えた。みずからの土台を根こそぎにしてしまわないように。死は、世界中のどこにだって転がっているのだが、誰かを見捨てるということだけは、してはいけないのだ。
晩年の母との生活は、言葉に尽くせるものではない。地獄の蓋が開いたと感じる夜もあった。救急センターで石を噛む思いをしたことがある。ICUの看護師の優しさに助けられることもあった。 しかし、自分が今、大阪の大学で学んでいる看護というものの限界についても考えさせられることも、しばしばあった。母から学んだことは数知れないが、最も勇敢な人間の一人だと、尊敬の念を抱かずにはいられない。
しかし、その母が、最後にベッドから立とうしたときに、それをおれは支えていたのだが、「母さんね、疲れたのよ」と、息も切れ切れにあえいだ時に、彼女の闘いは終わったのだと思った。 落涙せずにはいられなかった。車イスで母とICUを出て、眺めた夜の明かりは、一生忘れることはないだろう。
人は、誰しもが、死にゆく存在だ。それぞれの長い旅の途上にある。人と出会い、失うことを知る。人生に迷いながら、傷つきながら、その分、強くもなり、優しくもなれる。生きることをあきらめない限りは、闇を照らす明かりは、消えることがない。
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