この数年、なぜか小説を読まなくなってしまった。元々、それほど読書家でもないが、高校時代は、村上春樹を好んで読んでいたし、大学に入ってからも、村上龍や坂口安吾、大江健三郎を読んでいた。大学3年の時に聞いた大江の講演には、非常に感銘を受けた。彼は、物事を正確に表現することを、エドワード・サイードとのやり取りを通して、伝えてくれた。白血病と闘った晩年のサイードは、「私にはarticuracyがなくなった」と涙をこぼしたらしい。articulateとは、分節するという原意を以って、はっきり言う、明確に表現するという意味になる。この言葉を、自分の関節を曲げて、熱く伝えようとしている大江の姿は、記憶に鮮明であった。自分の考えを明確に表現することが持つ力は偉大だ。今でも、それは信じているのには違いないが。
大学を出て、オーストラリアに渡った。それからは、文字とは遠ざかり、肉体を自然に同化すべく、肉体労働を続けた。来る日も、来る日も、農場に出て、日に焼かれ、土まみれになった。工場で、肉体を酷使する生活を続けた。それで幸せだったのだ。工場に通う車から、朝早く、どこまでも続く平原に月が浮かぶ様を観る。本当に幸せだった。本も数冊持っていたが、ほとんど読まなくなっていた。
ただ一冊”Kite Runner"というアフガニスタンの物語だけは心を打った。戦乱続くカブールから、アメリカの都会に渡った親子の物語だ。世の中の動向にも関心が薄れていて、また労働の疲れから読む気も起きなったのだが、シドニーモーニングヘラルドの日曜版は読み続けていて、日本のニュースも断片的であるが入ってきていた。安倍が首相に就任して、最悪だなと思った覚えがある。
正直、世の中にはうんざりしていた。イラク戦争は続き、バグダッドでは自爆テロで何人もの人が死んでいた。そうなることは分かり切っていたのに、本当に馬鹿らしくて仕方なかった。それに対して、自分の生活には満足していた。少なくとも、自分の肉体の痛みと引き換えに、俺は暮らしている。世界中から集まった仲間たちと、共に酔い、歌い、くだらない話をして、夜を過ごす。人生で最も充実した、最良の日々だったと思う。肉体労働に、霊性の中心を置くべきだというヴェイユも、もっと身体が強かったらよかったのにな。
ところが、いいことは長くは続かない。必ず、終わりがある。仲間たちは故郷に帰り、ある者は留まり、生まれ育った者は動くことができない。そうして、俺たちは離ればなれになった。 俺は、イギリスにいる女とケリをつけることもできず、違う女たちを追いかけていた。本当に、その女たちは美しかった。ビザが切れ、 日本に帰ることになっても、帰りたくはなかった。しかし、いいことは長くは続かないのだ。
もう長い間、本を読んでいなかったのだけど、Kazuo Ishiguroの"Never Let Me Go"に出会ったのは、その頃だった。イギリスの田舎に、クローンが生活する学園と寮がある。そのクローンは将来、臓器を提供するためだけに存在する。成長してドナーとなった同級生をケアする、Kathyの物語だ。読み始めて、あまりの暗さに辟易し、しばらく放り出していた。
それを先日、読み返したら、止まらなくなった。本当に久しぶりの小説体験だった。最後のラインにしびれた。
"The fantasy never got beyond that- I didn't let it- and though the tears rolled down my face, I wasn't sobbing or out of control. I just waited a bit, then turned back to the car, to drive off to wherever it was I was supposed to be"
そうだった。俺は、こういう気持ちで帰ってきたのだ。
勇気が湧いてくる。
そして、俺は進む。
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