八月は、精神の病を持つ人と過ごす時間が多かった。彼らは優しい。正直な感想である。当事者のひとりは、精神の病は、人間関係の障害であると話していた。人間関係の障害であれば、周囲の理解さえあれば、暮らしていくことができるのではないか。それ自体は、特に難解なものではない。精神の疾患のことを知らずとも、共生は可能であると思う。国籍や肌の色の違いが、共生の妨げにならないのと同じ問題である。
しかし、 精神とは何なんだろう。ドーパミンなどの脳内物質の問題なのだろうか。あるいは、見えないものなのか。ウッディ・アレンが、精神分析のシーンを映画に多用するのは、客観視すると荒唐無稽だからだろう。治療方法が、これほど確立していない分野はないのかもしれない。薬剤にしても、ここまで多剤を飲ます診療科はない。つまり、原因を特定できておらず、診断とする疾患名も、ほぼ任意である。がんの診断のように、標準となる腫瘍マーカーがない。症状をDSMというカテゴリーに当てはめているだけである。
R・D・レインという精神科医がイギリスにいたが、彼の『好き?好き?大好き?』という本に、以下のくだりがある。
”この錠剤をのみたまえ
叫ばないようにしてくれるよ
そいつはいのちを奪い去ってくれるよ
いのちがなければ きみはもっと楽な身になるさ”
患者の人格を無視して、せいぜい聞き分けのない子どもくらいにしか扱わない態度を、また、薬剤に偏重する治療というものを批判している。レインの時代よりも薬剤は進化しているが、多剤併用の傾向は変わらない。かわいくないものを黙らせるという心性が働いているのだろう。
かといって、薬がなければ、症状を抑えることができない。
障害は、どこにあるのか。 見えない障害を可視化できるか。
正常と狂気の線を、どこで引くのか。
翻って、我々は、狂気を許容できるだろうか。有用なもの、整ったものを至上とする社会で、精神を病む人の肩身は狭い。人間にとって大切なのは、人間と認められることだ。自己と他者を敬い、許容すること。
そんな簡単に思えることを達成するまでに、どれだけの時間と労力がかかるのだろう。
0 コメント:
コメントを投稿