(http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110120ddm041040151000c.html)
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人体の不思議展:標本展示で京都府警が捜査
京都市勧業館みやこめっせで開催されている「人体の不思議展」(同展実行委員会主催)の人体標本が死体に当たり、特定場所以外での保存を規制する 死体解剖保存法に抵触する恐れがあるとして京都府警が捜査していることが19日、府警への取材で分かった。厚生労働省は展示の標本が死体に当たるとの見解 を示している。同展は遺体を特殊加工した標本など約170点を展示。同法は大学など以外で遺体を保存するには都道府県などの許可が必要と定めているが、京 都市に許可申請は出ていない。
同展は02年から全国35会場で開かれ約650万人が入場。京都展は12月4日に始まり、展示を問題視する京都府保険医協会などが12月、告発状を提出した。府警は受理していないが、厚労省へ照会するなど独自に捜査を進めている。
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この人体の不思議展は、高校生の頃だったか行ったことがある。人体がスライス状に輪切りにされており、喫煙を長期間した真黒な肺が展示されているのを鮮明に思い出す。列になっていた人の混雑も。ちょうど大学受験の頃で、医学部の学生に数学を教えてもらっていたのだが、人体の不思議展の話題になり「自分も行ったけど、あれって大丈夫なのか」というような話をした覚えがある。あの頃は、医学についての知識も、倫理という言葉も分からず、怖い物見たさやセンセーショナルな展示に違和感を覚えていたに過ぎないと思う。
たぶん、この問題の賛否の境目は、死体を人と見るか、物と見るかの境界ではないだろうか。臓器移植の問題にもつながるテーマだ。医学の特権性の問題でもある。死体を人だと思う人は、展示にも反対するだろうし、献体や臓器提供にも抵抗があるように思われる。死体を割り切って物だと思える人であれば、今回の展示について、人体の知識を広めるという目的があれば、認めるだろう。ダ・ヴィンチも墓を暴いて、死体のデッサンを描いたというし、医学の進歩には、こういう罰あたりの存在を欠くことができないのも事実だ。臓器提供することで、救える命があることも確実である。
今回の展示の問題は、さらに死に重みがなくなったということがあるんだろう。人体の知識を普及するのであれば、現在の技術があれば、3Dの映像で展示すればよいわけだし。もしかしたら、死体を見る機会がなくなったことが、怖いもの見たさの需要を増加しているのかもしれない。30年前に、病院で亡くなることが、在宅死よりも多くなった。先進国では、リアルな死というものを感じる場所が少なくなっている。
弔うということは、どういうことなのか。ガンジス河やネパールの寺院の死体焼き場で、ぼんやりと考えていたことがある。涙が出るほどのひどい煙と悪臭だった。バンコクの死体博物館では、様々な死に方をした遺体を映した写真があった。溺死、落雷に打たれた者、交通事故。青黒く膨れあがって、映されていた死は滑稽でもあった。自分は、どのような死に様を曝すのだろう。ビルマの革命運動への軍の弾圧。砲撃により頭蓋が飛び散った写真。路上を濡らす赤い血。この世で、たったひとつの身体。
今思うのは、人間を、人間として存在させるものは、そこに降り注ぐ眼差しの力だ。眼差しは肉体に蓄積され、イメージを形作る。弔うということは、そのイメージを共有して、永遠のものにするということではないだろうか。
同展は02年から全国35会場で開かれ約650万人が入場。京都展は12月4日に始まり、展示を問題視する京都府保険医協会などが12月、告発状を提出した。府警は受理していないが、厚労省へ照会するなど独自に捜査を進めている。
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この人体の不思議展は、高校生の頃だったか行ったことがある。人体がスライス状に輪切りにされており、喫煙を長期間した真黒な肺が展示されているのを鮮明に思い出す。列になっていた人の混雑も。ちょうど大学受験の頃で、医学部の学生に数学を教えてもらっていたのだが、人体の不思議展の話題になり「自分も行ったけど、あれって大丈夫なのか」というような話をした覚えがある。あの頃は、医学についての知識も、倫理という言葉も分からず、怖い物見たさやセンセーショナルな展示に違和感を覚えていたに過ぎないと思う。
たぶん、この問題の賛否の境目は、死体を人と見るか、物と見るかの境界ではないだろうか。臓器移植の問題にもつながるテーマだ。医学の特権性の問題でもある。死体を人だと思う人は、展示にも反対するだろうし、献体や臓器提供にも抵抗があるように思われる。死体を割り切って物だと思える人であれば、今回の展示について、人体の知識を広めるという目的があれば、認めるだろう。ダ・ヴィンチも墓を暴いて、死体のデッサンを描いたというし、医学の進歩には、こういう罰あたりの存在を欠くことができないのも事実だ。臓器提供することで、救える命があることも確実である。
今回の展示の問題は、さらに死に重みがなくなったということがあるんだろう。人体の知識を普及するのであれば、現在の技術があれば、3Dの映像で展示すればよいわけだし。もしかしたら、死体を見る機会がなくなったことが、怖いもの見たさの需要を増加しているのかもしれない。30年前に、病院で亡くなることが、在宅死よりも多くなった。先進国では、リアルな死というものを感じる場所が少なくなっている。
弔うということは、どういうことなのか。ガンジス河やネパールの寺院の死体焼き場で、ぼんやりと考えていたことがある。涙が出るほどのひどい煙と悪臭だった。バンコクの死体博物館では、様々な死に方をした遺体を映した写真があった。溺死、落雷に打たれた者、交通事故。青黒く膨れあがって、映されていた死は滑稽でもあった。自分は、どのような死に様を曝すのだろう。ビルマの革命運動への軍の弾圧。砲撃により頭蓋が飛び散った写真。路上を濡らす赤い血。この世で、たったひとつの身体。
今思うのは、人間を、人間として存在させるものは、そこに降り注ぐ眼差しの力だ。眼差しは肉体に蓄積され、イメージを形作る。弔うということは、そのイメージを共有して、永遠のものにするということではないだろうか。
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